LINEで送る
農と食を結ぶ情報誌「とさのうと」
Vol.15
武将の眠る庭で。
花ニラの取材で訪ねた、梼原町山間部の大向(おおむかい)にある芝家澄さん宅。芝さんの発明家精神には、取材中驚かされてばかりでした。そのまま記事にしてよいなら、「とさのうと」が一冊全部埋まってしまうほどの内容がありました。

そして、農業とは別に驚いたのが、芝さんの家の庭に史跡があって、しかもお墓であったこと。興味を示した我々を、取材の終わりに芝さんが案内してくださいました。誰のお墓なのでしょうか?自然石で、とても古い雰囲気です。ここ数年の間に設置されたという解説板を読んでみます。

【津野春高の墓地】
「南路誌」によれば、「津野山郷中平村加末太(かまた)に墓あり、石塔なし、拡上唯多少の小石累積するのみ、古より里民これを崇めて春高の墓となす。また、或は以て春高之妾、川原渕氏之墓となす。」とある。

春高は、「南路誌」の系図によれば、津野氏十代の領主である。

なお、加末太は、中平備後守常定の元の姓であり、自然石の碑は、津野氏の筆頭家老・津野藤蔵人のものである。
梼原町の芝さん宅の庭にある津野氏の史跡
芝さんの花ニラハウスは、四万十川の第二源流・梼原川沿いにある。日本のふるさとを絵にしたような風景のなか。
そう、津野山郷と呼ばれたこのあたり一帯を治めていたのが、津野氏だったのです。津野経高が伊予からこの地へ移住して各地を開拓したのは延喜13(913)年、今から1100年の昔でした。以来、姫野々城を居城に、津野山文化が栄えます。

時は移って戦国時代、津野氏は土佐の戦国七雄に数えられる豪族でした。やがて長宗我部氏の配下となった津野氏は長宗我部元親の三男、親忠を養子に迎え家督を継がせましたが、長宗我部の相続争いに敗れ、元親の後継者で四男の盛親によって亡きものにされてしまいます。ここに津野氏は断絶したのでした。

案内板にある「自然石の碑」の津野藤蔵人という人は津野氏の直系で、弟と相続争いをした後、和睦して家臣となっています。親忠よりもだいぶ前の時代のことです。

江戸時代になると、長宗我部氏に替わって土佐の主は山内氏となり、このあたりは「津野山郷」と呼ばれるようになったそうです。

しめ縄を張った墓石の最上部には、〇の中に一文字、津野氏の家紋が彫られているのが、今も読み取れます。地区の人々がお祀りしていると聞きました。